平成17年1月1日号
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  柴田正己 戦争遺構研究会代表

     「旧国枝医院」G


  第2次大戦が風化する中、記憶するために戦争遺構は
  国、地方自治体が文化財として保存への道を確立せよ


 休日の夜、突然知人から電話がかかってきた。国枝医院(旧大阪窯業堺工場事務所)が無くなっているが、知っているかというものであった。何かの間違いでないかと思ったが、知人は取り壊したとの事である。筆者も慌てて駆けつけたが、堂々としたあの姿は見られなかった。英彰小学校の階段室が市民の声で残される事になったのに、ショックである。
 この煉瓦造建築は大阪窯業堺工場(明治29年開業)の事務所として大正初期に建設されたと推定されるものである。近代建築や近代化遺産(大正期の煉瓦工場の遺構)としての価値だけでなく堺大空襲の被害の跡を残し、全国の「戦争遺産リスト」に紹介されている貴重な建造物であった。
 戦後50年の記念の年(平成7年)に大阪府が府下に残る貴重な戦争遺構として選定し、立派な金属製の説明板が設置されていた。人々は末長く残されると思っていた。風化していく戦争の体験を伝えるのは人間、その次は各地に残る戦争遺構なのである。
 大正末期に煉瓦工場は閉鎖され、ドイツ・ホフマン輪環窯などは撤去され工場跡は住宅地になった。
 この煉瓦造と会社の歴史が刻まれた石の記念碑だけが残された。その美しい煉瓦造建築は大正末期から他の会社の事務所や幼稚園などとして、戦後は国枝医院として活用されてきたのである。
 昭和50年代の調査当時は、近代建築としての評価であったが、近年になって戦争遺構として高く評価されていた。
 崩れかけた建築は美観上好ましくない。煉瓦建築は地震に弱いなどの声は以前からあった。しかし、所有者をはじめ、多くの人々の理解によって戦争の歴史を後世に伝えるための生証人として大切にされていた。(『日本近代建築総覧』【80年・日本建築学会】・戦争遺構関係の図書にも多数紹介されている)。
 しかし、いくら重要な戦争遺構であっても個人が保存するには限界があるので、協力を求めるために堺市・文化庁などへも保存を要望していた(「堺市内・戦争遺構の保全・活用に関する要望書」、平成16年8月13日提出、@国枝外科・内科医院、A近畿管区警察学校【旧陸軍騎兵第四聯隊兵舎】、B堺市立英彰小学校階段室、C堺市立小集会所【旧仁徳御陵休憩所】、D山本経理事務所【旧奥野清明堂】以上5件)。
 我々は歴史的に貴重なものについては公費で保存して欲しいと考えている。一般の文化財に比べて戦争遺構の保存は遅れてはいるが、それでも各地で自治体が積極的に保存を進めている。
「近畿地方の戦争遺構で文化財になっているものの一部」
@北伊勢陸軍飛行場掩体壕(鈴鹿市、国登録=文化財)
A外人墓地(三重県紀和町、強制労働英人捕虜、町指定史跡)
B舞鶴軍港赤煉瓦ホフマン式輪窯(明治30年、国登録)
C舞鶴海軍兵器厰魚形水雷庫(明治33年、現在赤煉瓦博物館、市指定史跡)
D舞鶴鎮守府水道施設(国登録文化財)
E舞鶴海軍兵器厰予備鑑兵器庫(国登録)
F陸軍造兵厰香里製造所煙突火薬製造所(枚方市指定史跡)
G姫路第十師団兵器庫被服庫(明治38年、現在姫路市美術館、国登録)
『日本の戦争遺構』(平凡社新書、04年初版、戦争遺跡保存全国ネットワーク編)参照
 以上のような実例を見習って大阪でも早急に、戦争遺構の文化財への道を開いて欲しいものである。
【写真】
 新聞・ネットでも取り壊しが紹介された貴重な戦争遺構・国枝医院(11月11日付N紙参照)


  <4面から続き>

   アメリカの単独行動主義   〜世界にとって大迷惑〜

 しかも、大量破壊兵器は発見出来なかったが、フセイン政権下のイラクに大量破壊兵器の施設、技術などがあったことは実証済みである。
 日本の地下鉄サリン事件で判るように、僅かな量で大量殺戮が可能な化学兵器などを砂漠地帯から発見することは至難の業である。
 従って、大量破壊兵器を理由にイラク戦争を行ったことは間違いだと指摘する声は国内では受け入れない雰囲気であった。
Y 今後の問題
 「何が脅威なのか」、「いつ、どんな先制攻撃」を取るかについて、アメリカが世界最強国家であるからといって、単独で判断されては困るという意見が国際社会に根強くある。アメリカは単独行動主義の外交に走っては、世界は迷惑である。「抑止」と「封じ込め」に代わる対応を効果的に進めるには外交や情報共有、司法共助、テロ資金取締りなどの国際協調主義と国連を通じた協力も欠かせない。そうした国際ルールづくりが今後の課題として、求められているのである。

発行所:大阪ジャーナル