平成17年4月1日号
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  柴田正己 戦争遺構研究会代表
    「東淀川・旧高射砲陣地」D


  敗戦間近、1万bの高空を飛行する米軍機に制空権を
  奪われ攻撃するも弾丸は届かず切歯扼腕の兵の夢の跡

 この陣地について、前の文献資料が、現在のところ見つかっていない。しかし、現地見学をマスコミが紹介してくれたので、関係者とも連絡が取れ、いろんな事が判ってきた。
  当時、高射砲隊員・学徒動員だった方々から聞いた事や、戦争関係の研究されている方々の資料をもとに簡単に紹介したい。
  名称は「国次(くにつぐ)高射砲陣地」と言われていたようで、終戦時には「陸軍第15方面軍高射第3師団122連隊第1大隊第1中隊」であった。因みに「高射第3師団司令部」は天王寺の大阪市立美術館(昭和11年竣工)に置かれ、連隊本部は大阪市の大宮町の当時の摂南高等専門学校(現在の大阪工業大学)に置かれていた。連隊長は五峯作一大佐で、大隊長は山野広治少佐で、中隊長は大原廣義中尉、小隊長は本田実穂少尉であった。
  最初に大原廣義さんに伺った事を紹介する。
  大原さんは大正7年3月生まれ、地元の県立の旧制中学校、千葉県の高射学校を卒業、陸軍中尉(後に大尉)。
  @加古川の部隊(昭和15年頃)、大阪市西淀川区の歌島(同16年)の部隊から、同17年に東淀川の国次部隊に少尉で入隊した。昭和18年秋頃には、国次陣地は完成していたように思う(この頃の高射砲陣地は、地上に土を盛って、その上に4基設置していたと思われる)。
  A陣地内には、指揮所、炊事場、火薬庫、医務所などがあり、営門(出入口)は敷地の北東にあったように思う。
  BRC造(鉄筋コンクリート造の柱脚上の砲台の設計は司令部の技師(中佐?)のオガサワラ(小笠原?)と言う人、工事は地元の業者ミゾバタ(溝畑、溝端?)と言う人、兵隊、学徒動員が手伝っていた。
  材料は天保山の陸軍の倉庫から貰ってきたが、十分あったようである。砲台は昭和20年6月頃に完成していたように思う。7月から終戦まで射撃したと記憶している(地上のと共用し、完成したものから、RC造の砲台から射撃したと思われる)。
  CRC造の砲台へは階段もあったが、土を持ったスロープで登った(そのほうが早く上がれた)。
  D米軍機から攻撃された記憶はない(攻撃されて死者が出たように聞かれている人もおられる)。昭和17年頃、米軍のB25が大阪上空を飛行したように記憶している。
  E陣地の塀の基礎は、RC造であったが、塀は疎開の時の板やトタンの廃材を使った。
  F残務処理のため昭和20年9月中頃まで片付けをした。
  G終戦の時、兵隊たちに早く故郷へ帰って、これからの日本の復興のために働くように話をした。
  大原さんには、貴重なお話を聞かして頂き感謝しています。長生きをされて、これからも戦時中のお話を聞かせて下さい。有難うございました。
【写真】
  国次陣地にあったものと同形の八八式七糎野戦高射砲(昭和3年、皇紀2588年の制式制定)である。


4面から続き

  450年前に栄えた寺内町
    
石川の水利が関係  〜 今後も整備が大事 〜


  宮尾氏「寺川さんはいろんなワークショップで、石川の自然教室に子供たちを誘ったり、そこに一緒に大人が参加したりという事をされていますが、そのあたりの実態を少し教えて頂きたい」
  寺川氏「最近の子供たちは、本当に自然の中に入れないとか、自然が無くなっているので、自然の中での遊び方で、何が危ないかとか。何をしてはいけないとかが判らない。川の自然の魅力は行かないと判らない。山も同じです。一緒に行って、楽しい事をしながら、危ない事や場所、どんな虫がいるかを経験的に学ぶ事が大事です。それを出来る仕組みづくりを大人たちがやっていく事が必要です。学校の先生方と一緒にやっていく事や、場面も大事であります」
 宮尾氏「寺内町は非常に古い町で活動の中心は少し年配の方になっているという悩みも少しあるかなと見受けしましたがそのあたりはいかがですか」
  佐藤氏「ほとんどの家庭がサラリーマン世代になったんで、青年期、壮年期に転勤などで町を離れる方が多いです。どうしても若い方の参加が得られない。平均年齢が高いです。先ほど石川との係わりが出たが、寺内町が450年ほど前に商都として栄えたのは、石川が重要なファクターで、その水利を活かして物資を大阪や堺に流通させていた。石川と寺内町は切っても切れない関係であり、寺内町ともども石川を整備して頂き、きれいな住環境をつくりたい」

発行所:大阪ジャーナル